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【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

3. 徳川家康の事業承継

浜松城web※浜松城

 徳川家康は、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」の遺訓で知られているように、「鳴くまで待とう」の人生です。今川家への人質から始まり、織田信長との同盟を経て豊臣秀吉の大老となり、秀吉の死後に60歳で征夷大将軍に任命され、天下人になります。家康は、ずっと堪え忍んできた忍従の人であったように、思われております。織田信長秀吉にじっと耐えて従い、最後の最後に豊臣家から天下を奪い取った、実は腹黒い「狸親爺」との評判さえあります。
しかしながら、遺訓は実は後世の偽作とされているようです。家康の生涯を追っていくと、堪え忍ぶというよりも、信長秀吉に対して忠誠を尽くしていた人物のように、私には思われてくるんですね。
余談はさておき、徳川家康豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍に勝った後、徳川幕府を開いて大名たちを統治します。いわば、子会社であった徳川家が親会社である豊臣家からM&Aで事業を譲り受けたようなものですね。ここでは、徳川家康による事業承継について、子会社による事業の乗っ取りとしておきます。

まずは、徳川家康の事業承継を4要素で考えてみましょう。

 

(1) 徳川家康の直面していた事業承継

 ビジネスモデルについてみると、当時は戦国時代から文禄・慶長の役を経て、大名や領民ともに戦いに疲れて、平和を欲していた時代でした。そういう時代の声を無視し、豊臣家が富むだけを目的としていた秀吉の政策は、次第に人心を失いつつあったのです。そんな中で、堅実で手堅い印象を与える徳川家康の政策は、少しずつ評判が上がっていったと思われます。
 人・組織についてみてみましょう。親会社である豊臣家は、秀吉の時代にはもちろん権威も人望もありましたが、秀吉亡き後は寡婦である淀殿と幼い秀頼が残されただけであり、秀頼の成長しか眼中にない淀殿の人望は失われつつありました。豊臣政権に最大の忠誠を誓っていた石田三成も、政治能力は優れていたものの人望は全くなく、むしろ豊臣政権が文治派(石田三成派)と武断派(徳川家康派)に分裂する原因を作ってしまいました。
豊臣家の弱みは、秀吉がもともと卑賤の出身であり、心からの忠誠心を持った腹心の部下がほとんどいなかったこと、天下統一の過程で大名たちに大きな利益を分け与えながら懐柔していく必要があったために、豊臣家の有する領土はそれほど大きくなく、相対的に大名たちの力が強くなってしまって統制がとれなくなってしまったことにありました。
そんな親会社に対して、徳川家は古くからの家来が多く、苦楽をともにした家臣たちは徳川家康への並々ならぬ忠誠心を持っていて、しっかりと組織の統制がとれていました。対する家康の方も、厳しさだけではなく家臣への情愛が深い主でした。家臣間の対立で動揺する豊臣家よりも、情愛の深い家康と統制がとれた徳川家への大名の信頼は、強くなっていったことは当然の成り行きでした。
 財務については、金山・銀山の開発や貿易の独占による富の流入システムを作った豊臣家は当然として、関東260万石の領国を有し、元来から極端ともいえるほど倹約家であった徳川家康の財務状態も、お互いに極めて万全でした。朝鮮の役などで疲弊して財政が厳しくなった大名に対して、徳川家康は資金を融通したりしています。このことも、徳川家康の声望を高めることとなりました。
 統治基盤、これについては、関白という高い位を得ており、また天下人を承継している豊臣家の方が、内大臣の位を有していた徳川家康よりも有利だったといえるでしょう。関ヶ原の戦いで西軍についた大名が意外に多かったのも、死んだとはいえ、秀吉の威令はまだ衰えていなかったことの証拠です

 

(2) 徳川家康の「承継人」としての能力

それでは、徳川家康「心・体・技」はどうでしょうか。
 徳川家康もまた、秀吉とは違う意味での「苦労人」です。今川家の人質になったことは先述しましたが、今川家と独立して織田信長と同盟してからも、その軍の強さを買われて便利使いされ、その一方で武田家への抑えとして重圧に耐え、しかし嫡子信康の武田家への裏切りを信長から疑われて長男を切腹させられるなど、生まれついての大名であるにもかかわらずさまざまな辛酸をなめています。
また、今川家の人質であったときに、今川義元の軍師として手腕を発揮していた太原雪斎から学問の手ほどきを受け、学ぶことに開眼し、生涯にわたって様々な学問を学んでいました。
そのおかげでしょうか、人情に篤く、また政治や軍事の知識も豊富であったと言われています。また、これは家康だけでしょうか、身体の養生に関する造詣も深く、健康のためにスポーツをやったり自ら薬を調合したりもしていました。徳川家康が当時にしてはかなりの長命であったのも、その養生のおかげでしょう。
では、「心」はどうでしょうか。あらゆる苦労をした家康のこと、今川家から独立した時に「大名としての覚悟」は定まっていたことと思われます。ただし、「天下を争うような決意と覚悟」にはほど遠かったように思われます。これも私見ですが、徳川家康もある時点から、「天下を承継するに値する、“本物の決意と覚悟”」が定まったように思います。その最初のきっかけは、徳川家とその同盟者であった織田信長にとっても最大の危機であった「武田信玄の西上」の時です。
時は1572年の秋。足利義昭の要請に応じて、武田信玄がついに甲斐を発して東海道へと軍列を進めます。織田信長は、その時に上方での戦いに釘付けとなって動けず、東海道を守る家康にわずかな援軍を派遣してくれるのが精一杯でした。徳川家康は独りで、武田家の猛攻に耐えなければならなくなります。
実は、ここで徳川家が織田家との同盟を破棄して、圧倒的に優勢な武田方に寝返るという選択肢もありました。たとえそれをしなくとも、浜松城に籠城していれば、京都へと急ぐ武田信玄はもしかすると手間暇のかかる城攻めをしないで、徳川家の領地を素通りしてくれる可能性もあります。
当然、浜松城での軍議では自殺行為に等しい武田軍との衝突を避け、「籠城」を主張する声が圧倒的多数を占めました。どこかで見たような光景ですね。そう、織田信長の「桶狭間の戦い」も同じでした。今から見ても、無理のない意見だと思います。
しかしながら、普段はあまり家臣に対して強く意見を言わない温厚な徳川家康が、このときは人が変わったように激しい調子で頑固に出撃を主張します。家臣たちは唖然として、畳を叩いて口々に反対しますが、ついに家康の勢いに押し切られて城を出て戦うことに決定してしまいます。
家康は、さすがに正面からがっぷり四つでは勝ち目がないと考え、地の利を生かし浜松城を素通りする武田軍の背後から奇襲しようと目論みます。
しかし、老練な武田信玄はそんな家康の目論みは当然に承知していて、浜松城の北方にある三方ヶ原で万全の体制で待ち構えていました。信玄の罠にかかった徳川軍は完膚なきまでに打ち負かされ、家康が逃げる途中で恐怖のあまり脱糞するほどの過酷な追撃を受けました。しかし、無謀な主人の突撃にもかかわらず、家康の家臣たちは健気に家康を守り、自ら家康を名乗って追撃してくる武田軍の犠牲になりました。浜松城にほうほうの体でたどり着いた家康は、自らの軽率さを深く反省して、敗戦に打ちのめされた自分の姿を絵師に描かせて、「顰み像」(しかみぞう)として生涯自分の寝床の横に置いて眺めていたと伝えられています。二度と、このようなみじめな敗戦をしないため、また自分の命を犠牲にして自分を守ってくれた家臣たちへの懺悔として。
なぜ、徳川家康は十中八九負けるとわかっている戦いへと赴いたのでしょうか。当時、決して退かない強さと鉄の団結で鳴る徳川軍の強さは世間に知れ渡っており、家康も「東海道一の弓取り(将軍)」と呼ばれていました。そういうことへの過信があったかもしれません。あるいは、戦わずして籠城していれば、武田家との国境にいる国人たちに侮られて、武田側へと離反されてしまうおそれがあり、彼らへの体面もあったことでしょう。しかし、最も強い要因は、織田信長への義理立てではなかったかと、私は考えます。徳川家は今川に虐げられていたものの、保護も受けていました。その義理を破って、織田信長との同盟を選んだ以上、状況が不利になったからと言ってその同盟を簡単に裏切るようでは、世間からの信頼を失う恐れがあります。当時、状況に応じて裏切ることは少なくありませんでしたが、裏切った人たちの多くは滅んでいきました。
しかし、ここで自ら「死地」へと飛び込んでいった徳川家康は、手痛い敗北を喫したものの、戦国の世で本当の評判を得ることとなります。「家康公は律儀で、決して裏切らない」との信用を得るとともに、伝説的な強さを持っていた武田軍と戦った経験は、家康にとって得がたい名誉となります。豊臣秀吉でさえも、天下統一の過程で徳川家康と正面からぶつかることは避け、懐柔により従わせる選択肢をとらざるを得なかったのです。天下人にさえ手を出させなかったことは、徳川家康の声望をより高めることとなりました。

 

(3) 家康による事業承継

こうして、豊臣家のもとでも高い声望を得ていた徳川家康は、秀吉の死後に大きく動揺した豊臣家の状況を見て、天下の事業を承継すべきなのは豊臣秀頼ではなく自分であると考えるようになります。
ただし、織田家からEBOで羽柴秀吉が事業を譲り受けた当時とは違い、既に天下は豊臣家のものと定まっていました。従って、石田三成を中心とする反対勢力の力はまだまだ強く、結果として関ヶ原の戦いが生起することとなります。
 徳川家康は、自分に味方する勢力をしっかりと集めて万全の準備を整えますが、予想外に石田三成率いる西軍に苦戦することとなります。かろうじて関ヶ原の戦いに勝利して天下の覇権を握ることとなり、3年後に征夷大将軍へ任命されて江戸に徳川幕府を開くこととなります。
対して、豊臣家の声望は日に日に地に落ちていき、15年後の大阪の陣では浪人以外の味方を得ることができず滅亡することとなります。それは、自分の死後の統治基盤を固めきれなかった秀吉の失敗でもありました。
こうして、織田信長から始まった天下の事業は、ようやく三代目の家康にいたって完成されることとなったのです。

 

4. 事業承継のまとめ

三人の、戦国時代の英雄を見てきて、いかがだったでしょうか?
三人それぞれ、承継する事業の内容は異なっており、また事業承継の4要素で不足していたところもそれぞれ異なっていました。でもそこに共通する「何か」があるように、感じ取れましたでしょうか。
そうですね。「本物の決意と覚悟」を三人とも最初から持っていたわけではなかったことです。自らに降りかかってきた文字通り「絶体絶命」の究極な状況に対して、「受け身」で対するのではなく、たとえ自分独りであってもやり抜くという姿勢で向かっていったことで、自ずから「本物の決意と覚悟」が定まっていったのではないでしょうか。
そしてその根本においては、打算や計算よりもまず「真心」があったように私は思うのです。もちろん、何かを行う過程で様々な計画、準備、段取りは不可欠です。でも、それをリーダーがする必要はない。リーダーは切迫した状況に対して、ぶれない姿勢、不退転の決意と勇気、を部下に示す必要があるのです。今回の三人が直面した状況は、現代ではなかなかあり得ないほどの究極の場面ですね。でも、そこまではいかなくても、人それぞれにそのような切迫した場面はやってきて、それをどうにか自分の力で切り抜けていくことで、だんだんと「本物の決意と決意」は定まっていくのではないでしょうか。
私たち後継者の学校では、まず「心」が大事であると、後継者の方たちに申し上げております。でも、「心=本物の決意と覚悟」なんて、今の自分にあるかもわからないし、持てるかどうか自信もない、と思われる方も多いと思います。それは、本当によくわかるんですね。なぜなら、今回見たとおり、日本の歴史上で最も優れたリーダーであったと思われる三人でさえも、最初から決意と覚悟を持っていたわけではないからです。三者三様に、自分の内心の恐れと戦いながら、無我夢中で戦うことで身につけていったものであるように、私は考えます。
もしそうであるならば、私たちも決して恐れることはないと思います。今、あるいはこれから、皆様に降りかかってくる様々な大小の困難や課題を、皆様が一つ一つ正面からクリアしていくことで実力がつき、自ずから決意や覚悟も定まっていくと思います。
皆様の決意と覚悟が、一刻も早く実現できるように、私たち後継者の学校はお手伝いさせていただきます。必ずや実現できると、信じております。

最後に、この文章が皆様の事業承継に少しでもお役に立てればと願っております。

(後継者の学校パートナー 石橋治朗)

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