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【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

2. 豊臣秀吉の事業承継

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 豊臣秀吉は、ご存じの通り卑賤の身分から出世して天下人まで上り詰めたことで有名ですね。まさに「鳴かせてみよう」の人生です。そのきっかけとなったのは、織田家の家臣になったこともまた、よく知られています。本能寺の変で織田信長が急逝し、その後を承けて天下を統一したわけです。一人の家臣に過ぎなかった豊臣秀吉が、織田信長の事業を引き継いだわけですから、現代でいうといわゆる「EBO」、親族ではない役員、従業員による事業承継とみていいのではないでしょうか。ここでは、豊臣秀吉による「EBO」としての事業承継を見ていきたいと思います。
 豊臣秀吉は、今でこそ天下人として有名ですが、織田家の家臣の頃はその有能さを認められてはいたものの、織田信長の事業を承継するような存在ではありませんでした。そんな秀吉が、どのようにしてEBOを果たしたのでしょうか。まずは、4要素です。

 

(1) 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の直面していた事業承継

 秀吉が置かれていた環境を4要素で考えると、どうなるでしょうか。
 ビジネスモデルについては、文句のつけようもないですね。戦国末期において、織田家の事業は最先端を行っており、昇竜の勢いと言っても過言ではありませんでした。
 人・組織についてはどうでしょう。織田信長はよく知られているとおり、身分や出自にかかわらず自らの判断と縁に基づいて家臣を選び、能力に応じてどんどん出世させており、織田家は有能な人材の宝庫でありました。ただし、急速に拡張した新興勢力にありがちですが、今やカリスマ創業者(天下事業についてみると信長は創業者と言ってもいいでしょう)となった信長には強力な求心力があったものの、組織の整備は追いつかず、柴田勝家、羽柴(当時はこの姓)秀吉、明智光秀、丹羽長秀などの有力な重臣が競争し合っている状況でした。
 羽柴秀吉は、重臣の一人としてみられていたものの、それ以上の存在ではありませんでした。重臣の地位としては、やはり創業当時から重臣を務めていた柴田勝家の方が、位が高かったというのが衆目一致するところでした。
従って、統治基盤にしても織田信長がもちろん完全に掌握しており、嫡子織田信忠への承継を生前から着々と進めていました。もしも、本能寺の変で長男の信忠が戦死しなければ、羽柴秀吉によるEBOはなかったでしょう。財務についても、商業都市である堺や大津の重要性に早くから着目していた信長の経済政策は独創的で、織田家に富を集めました。
従って、織田家は人・組織以外にはほとんどリスク要素というものがなかったのですね。しかし、戦国時代は現代以上に「人」の要素が強く出る時代でした。組織がしっかりしていれば、他の要素が多少苦しくてもカバーできましたが、武田家を見ればわかるように、人が離反するとどんな強国でもあっというまに瓦解したのです。そして、羽柴秀吉は後述するように、「人」の要素については強い人でした。

 

(2) 豊臣秀吉(羽柴秀吉)の「承継人」としての能力

それでは、秀吉「心・体・技」はどうでしょうか。
 秀吉は、織田家に仕える前の詳細は不明ですが、おそらく様々な苦労をしてきたものと考えられています。
辛酸をなめたおかげでしょうか、人の気持ちを掌握することに天才的な能力を持っていたと言われます。先述したとおり、織田信長が美濃国を攻略するに当たって、主要な武将を寝返らせる「調略」において、秀吉は多大な貢献をしたと伝えられています。
また、身分は低いけれども能力のある人材を登用して、自在に使いこなす統率力も持っており、対人的なコンピテンシーが優れていたと思われます。
従って、「体」及び「技」は身体能力を除けば、人に秀でたものを持っていたことでしょう。
では、「心」はどうでしょうか。秀吉のエピソードは数限りなくありますが、織田信長に仕えたときの心情は、誠心誠意に満ちあふれており、並々ならぬ覚悟で仕官したことがうかがえます。しかし、それと「承継人」としての「心」は違うのですね。仕えるときの覚悟はあくまで「奉公人」の心構えなのです。私はやはり、秀吉もいくつかの試練をくぐり抜けて、次第に「心」が定まっていったと思っています。それを、次に述べたいと思います。

 

(3) 秀吉が「本物の決意と覚悟」を持つまで

では、秀吉はどのようにして「心」を成長させ、「承継人」となれるような本物の決意と覚悟を持つに至ったのでしょうか。
そのきっかけは、2回あったと私は思います。
一度目は、「金ヶ崎の戦い」です。
1570年、織田信長は、足利義昭に従わないことを口実として、越前(今の福井県)の朝倉氏を突如攻撃します。緒戦では連勝しますが、織田信長の妹と婚姻して同盟関係にあった背後の浅井長政に突然裏切られ、織田軍は包囲されて危機に陥りました。
 織田信長は、即座に退却を決意して、一番後ろの殿(しんがり)を務める武将を募りますが、誰も手を上げるものはいません。それはそうでしょう。殿は退却に当たって一番後ろで味方が逃げることを助けながら、勝機に逸って襲いかかってくる敵と戦わなければならない。戦死する確率の高い危険な任務です。
しかし、秀吉はそこで殿を務めることを名乗り出ます。上席ではなかった彼にその義務はありませんでした。家中には、調略など裏工作にもっぱら活躍する秀吉を、戦場では臆病者とそしる向きもありました。秀吉は、ここで自分の命を賭けてそのような声と勝負に出たのです。自分は、決して「口」だけの人間ではない、武士としての覚悟ができている侍であることを、証明しようとしたのです。
さすがに、普段から秀吉をよく思わない柴田勝家なども、自分の兵士を援軍として置いていきました。先鋒を務めていた明智光秀徳川家康も、殿の戦いに参加します。10余年後に本能寺の変で三者三様の運命をたどることになる三人が、肩を並べて協力しあい、整然とした見事な退却を行い、味方の損害を最小限にとどめて京都へと帰ってきたのでした。秀吉はこの功績により、織田家の家中で一目置かれることとなります。
二度目は、その「本能寺の変」です。
 明智光秀によって織田信長が討たれたとき、羽柴秀吉は備中国(今の岡山県)で毛利軍と対峙していました。備中高松城を「水攻め」でまさに陥落させようとしていたときに、本能寺の変の一報が入ってきたのです。
後世では、毛利攻めのために大軍を任されていた秀吉が有利と論評される向きもあるようです。しかし、一緒に毛利を攻めていた武将たちは、協力者であっても子飼いの部下というわけではなかったのです。いざというときに、秀吉に対して忠誠を尽くしてくれるような間柄ではなかった。秀吉にとっての子飼いの部下はごく一部でした。織田信長という存在が消えてしまった今、毛利という織田にとって最も強力な敵を眼前にしている秀吉は、文字通り織田の家中で一番危険な「死地」に置かれていたと言っても過言ではないのです。
本能寺の一報を聞いたときに、羽柴秀吉はどうしたでしょうか。
当時、軍師として秀吉を助けていた黒田官兵衛は、この窮地を「好機到来」と考えます。傍目には「死地」でも、最大の戦力を持っているのは秀吉であり、毛利に対しては勝利寸前、ここで裏切り者として憎悪を受けている明智光秀を討滅すれば、織田家で最も有利な足場を固めることができる可能性があるのです。
そう考えたのは、黒田官兵衛の天才的な頭脳です。しかし、黒田官兵衛はそう考えたからこそ、天下人になれなかったのかもしれません。このような一大事のときに必要なのは、「計算」や「打算」ではないのです。これがチャンスであるのは秀吉もわかっている。しかし、計算や打算で動いても、誰も心から協力などしてくれないのです。秀吉はむしろ、そのような官兵衛を「才知のある愚か者」と思ったに違いありません。
 秀吉はこのときに、どのように考えてどのような行動をとったのでしょうか。
 秀吉は一報を聞いたときに、心の底から慟哭しました。織田信長は彼にとって苛烈な君主でありましたが、卑賤の身分から立派な武将にしてくれた大恩人です。心から、織田信長の非業な死を嘆き、明智光秀の裏切りに対して心から恨みました。一刻も早く京都へと引き返し、織田信長仇をとる決意を固めます。そのように決意する秀吉の胸中に、明智光秀を滅ぼして自らが織田家の覇権を継ぐとか、そのような考えは一切なかったと思います。ただ、織田信長の恩に報いること、それだけを強く心から思っていたのではないでしょうか。そのように純粋で強い思いがなければ、あのような驚天動地の窮地の中で手を貸してくれる人は現れなかったに違いないのです。勝とうが負けようが、たとえ自分一人でも京都へ駆け上って、主を弑殺した憎き明智光秀と果たし合いをする。ただ、その純粋な思いだけで京都へ駆け上がっていった。その純粋な心に共感する侍たちが、各地からどんどん集まってきて、気がつけば明智勢を圧倒する軍勢となっていた。それが、中国大返しの真相であるように思うのです。
あとは、史実の通りです。毛利との調整、道中の段取りは有能な黒田官兵衛たちが奔走して整えてくれました。秀吉は自らの決意を方々の味方へ伝えながら、ひたすら山陽道を京都へ駆けてゆきます。織田信長が、「敦盛」を舞って味方が追いつくのも待たず、単騎今川へとひたすら駆けていったときのように。後から後から、味方が追いついてきます。これまで蓄えてきた金銭も兵糧もすべて味方に分け与え、文字通り「決死」の覚悟で秀吉明智へと向かい、天王山のふもとでこれを討滅したのでした。本能寺の変からわずか10日間で明智を滅ぼした秀吉の所業は「中国大返し」と呼ばれ、織田家の家中で筆頭に躍り出ることになります。織田家の後継者であった織田信忠信長と一緒に戦死していたため、後継者がいなくなった織田家は衰亡し、秀吉が天下統一事業を引き継ぐことになりました。その飛躍のきっかけとなったのが「中国大返し」だったと言えるでしょう。
では、なぜ秀吉は中国大返しを成し遂げられたのでしょうか。それは、黒田官兵衛のように計算をせず、ただ織田信長への恩義を返そうという真心で行動したからではないかと思います。計算や打算で動く人間に対しては、利用しようとする人や便乗しようとする人は出てくるでしょうが、決して命や運命を預けることはしないのです。秀吉は全く後のことは考えず、一心不乱に仇を討つことを考えて行動したからこそ、人々はそれに心を動かされて、同心してくれる人がどんどんと増えていったのではないでしょうか。

EBOにおける「本物の決意と覚悟」、それは、創業者に対する本物の感謝と恩義を感じることであること、それを秀吉の例は教えてくれるように思います。

 

(4) 秀吉が成し遂げた事業承継

 羽柴秀吉は、天王山の戦いで明智光秀を滅亡させ、織田信長の仇を討つことにより、織田家の中で一気にトップの地位へと上り詰めます。
織田家の嫡男である信忠信長と運命をともにし、次男信雄三男の信孝後継者としての能力も覚悟も劣っていたと見なされていたために、織田家の今後を決める清洲会議において、秀吉信忠の長男であった「三法師」の後見人になります。柴田勝家滝川一益などは、秀吉による織田家の家督の簒奪であると非難します。確かに、それは一面の事実でもありますが、織田家の天下統一事業はまだ半ばに過ぎず、関東や九州には北条島津など、有力な大名が健在でした。そのような状況では、事業を承継するのは血統よりもまず能力を優先する必要があるという織田家内のコンセンサスがあったのです。そのような暗黙の了解の基で、秀吉がトップへと就任することとなりました。
もちろん、反対勢力の筆頭であった柴田勝家とはその後争いになりますが、賤ヶ岳の合戦で圧勝してこれを滅ぼし、滝川一益も降伏させ、三男の織田信孝を切腹に追い込みます。次男の信雄家康と組んだため、小牧・長久手の戦いなどを強いられて苦戦しますが、外交により講和して家康も自らの勢力に組み込みます。
こうして足元を固めた秀吉は、四国の長宗我部、九州の島津、関東の北条を降して、天下統一事業を成し遂げることとなるのです。

(次ページは、徳川家康の事業承継)

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