コラム

【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

【コラム】歴史上の後継者 「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」

筆者:石橋 治朗
後継者の学校 東京校パートナー
石橋会計事務所 会計士/税理士


株式会社後継者の学校のパートナーの石橋です。

私は、このコラムを通じて、日本の歴史で行われてきた後継者による事業承継がどのようなものだったかを、皆さんにお伝えしたいと思います。
日本の歴史において、様々な後継者が苦心して事業を承継してきました。事業を受け継ぐ過程で彼らがそのような苦心や工夫をこらしたか、どのようなことに悩みどうやって解決してきたのか、それを学んでいくことで、今日の後継者の皆さんが自らの事業の承継を行う上で、何らかのヒントや気づきを得られればと願っております。
なお、文中の歴史に関する解釈は、全て私見であることをあらかじめお断りしておきます。

第1回目は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の事業承継を紹介します。この三者は、それぞれの違いを表すホトトギスの句で有名ですね。

 織田信長は、「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
 豊臣秀吉は、「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」
 徳川家康は、「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」

かように全く異なる性格と生き方を持ち、置かれた環境も違う三者が、どのように事業を承継していったのかを見ていくことで、事業の承継の仕方にもいろいろあるんだ、という気づきが得られるのではないかと思います。

また、今回見ていく事業承継の「事業」ですが、織田信長は織田家の事業を取り扱いますが、豊臣秀吉と徳川家康については、それぞれの家業の承継ではなく、織田信長が始めた乱世の天下統一」という事業をどのように承継したのか、そこに焦点をあてたいと思います。やはり最初ですから、「家業」という小さなものではなく、「天下」というでっかい対象に取り組んでみたいんですよね。この三人にはとてもかないませんが、私も大きい志を持って、現代での事業承継に取り組みたいと願っているのです。
江戸も末期の頃に、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という落首が出回ったそうです。江戸時代においても、戦国時代の「天下統一」という事業は、徳川家康だけではなくて三人の合作だと思われていたのですね。ただし、その承継においてはさまざまな苦心がありました。どのようなハードルがあって、それをどうやって工夫して乗り越えていったのか、見ていきたいと思います。

 

<後継者の事業承継を見る観点について>

私たち後継者の学校は、後継者が事業承継において直面する問題、あるいは押さえるべき要点について、次の4要素を考えています。

① 事業戦略(ビジネスモデル):承継する事業のビジネスモデルは、成長する可能性を有しているか否か。既に陳腐化していないか。
② 人・組織・風土:承継する事業の人・組織を後継者がどのように掌握するか。
③ 個人や会社の財務構造:後継者自身や会社の財務構造をどのように構築するか。
④ 統治基盤:後継者が会社や事業におけるガバナンスをどのように確立するか

後継者が事業を承継するためには、最低限この4つはクリアする必要があるということです。

また、後継者が事業承継を行う上で、自ら高めなければならない資質・能力として下記の3つ、「心・体・技」を考えています。

(ⅰ)決意・覚悟…後継者は事業を承継するための決意と覚悟を固めなければならないこと。いわゆる「心」
(ⅱ)思考・行動…後継者は成果を出すために、思考や行動特性を鍛えること。すなわち「体」
(ⅲ)知識・技術…事業を遂行するために必要なビジネスの知識やテクニック。つまり「技」

すなわち、後継者は自らの「心・体・技」を鍛錬して成長していくことで、会社の事業、人・組織、財務を成長させるとともに、しっかりと自らの拠って立つ基盤を掌握すること、それが事業を承継させるための王道であると、私たちは考えております。
なかでも、「心」、困難にもめげず事業を承継するんだという「本物の決意と覚悟」が大事です。「心」がなければ「体」も「技」も自分のものにはできず、事業承継の4要素をクリアすることはなかなかできない、と位置づけています。

この同じ視点で、歴史上の後継者を見ていきたいと思います。

 

1. 織田信長の事業承継

 

清州城web※清州城

 織田信長は、父親である織田信秀が病死した1551年に、17歳で家督を受け継いで、事業を承継しました。
しかしながら、よく知られた話ですが後継者としての織田信長の評判は決して芳しいものではありませんでした。名家の嫡男でありながら、裸に近いような奇妙な格好をして庶民と街で遊んだり、信秀の葬式で位牌に抹香を投げつけたりと、後継者としてふさわしくないと思われる行動が目立ったからです。
そんな長男を、父親の信秀は後継者として認めていたようでしたが、若くして急死してしまったために、性格が温和で常識人であった弟の信行の方が後継者としてふさわしいと考える側近たちによって、家中で対立が起きることとなります。
また、当時の織田家が置かれていた環境は、厳しいものでした。北には稲葉山城(現在の岐阜)に有力な戦国大名である斎藤道三、東には駿河国、遠江国(現在の静岡県)、三河国(現在の愛知県東部)の三ヶ国を従えた守護大名の今川義元がおり、さらに尾張国(現在の愛知県西部)の国内でも、織田家の同族同士での主導権争いにさらされていて、敵に囲まれているといっても過言ではありませんでした。織田信秀の方針で、斎藤道三とは婚姻関係による同盟を結んだものの、三河国との国境争いでは今川義元との戦いに敗れ、押され気味の状況でした。
 織田信長は、そんな四面楚歌の状況の中、何を考えてどのように行動していたのでしょうか。まずは、信長の置かれていた環境を先述した4要素で読み解き、それに対して信長がどのようにして自らを鍛えていたのかを見ていきたいと思います。

 

(1) 織田信長の直面していた事業承継

 織田信長の直面していた事業承継を4要素で考えると、どうなるでしょうか。
まずは、事業戦略(ビジネスモデル)ですね。織田信長の父、信秀は文武に渡って優れた武将であり、有能な家臣を育てて、斬新な戦い方で領地を広げていきました。織田家は尾張の守護大名である斯波氏の家臣筋の一族であり、信秀はその織田家でも傍流でしたが、実力でのし上がっていった典型的な戦国大名の一人でした。
従って、敵は多かったものの、織田家は勢いのある新興勢力であって、ビジネスモデルからいうとかなり有望であったことがうかがえます。
 人・組織はどうか。信秀が有能であり、家臣も信秀に育てられた者が多いだけに、「うつけ者(馬鹿者)」と陰口を叩かれていた信長の分は悪いと言っていいでしょう。信秀から引き継ぐ家臣たちの人望を信長が得ることは、かなり難しいはずです。
 財務構造はどうでしょうか。戦国大名は会社ではありませんが、国富(経済)が豊かであればそれだけ政治や軍事も有利になりますね。この点では、尾張国は濃尾平野に位置しており、当時から穀倉地帯として知られていました。経済的にはかなり恵まれていたようで、織田信秀も皇室に多額の献金を行って、官位をもらっているという記録が残っていることからも、財務構造は盤石だったとみていいでしょう。
 統治基盤という観点から見ると、信長は人・組織と同様に難しい立場ですね。株式会社のように「株式」という権利が存在しないため、当時のガバナンスは「血統」「実力」「声望」に拠っていました。信秀は、「実力」「声望」があり、由緒正しさという権威の不足を力で補っていましたが、信長はまだ「実力」は未知数であり、「声望」はゼロかマイナス、かろうじて嫡男という「血筋」に拠らざるを得なかったという点で、かなり危ういものであったはずです。

 

(2) 織田信長の後継者としての鍛錬

織田信長は、事業承継を受け身の姿勢で待っていたのでしょうか。決してそんなことはありません。一見して奇矯に見える行動には、合理的な理由が隠れていました。
信長のとった奇妙な行動は、以下のようなものです。

  • 髪型を当時の下層民がと同じスタイルにしていた
  • 豹皮の半袴をはいて、猿回しのような縄の帯をしめ、小袋をぶら下げていた。
  • 鷹狩り(鷹を慣らして小鳥を捕獲させるスポーツ)をする際に、伝統的な貴族のスタイルではなく、戦場で実践できるようなやり方で行ったこと
  • しじゅう出歩いて、庶民の子女と遊んでいたこと

このような信長のスタイルや行動には、それまでの常識では計れない合理性がありました。髪型は当時の若者の流行を真似していたのですが、結い方が簡単であり、激しい動きをしてもめったなことでは乱れないので、戦場で戦うにはもってこいでした。小袋は火打ち石など小物を入れるためのものでした。鷹狩りも、あらかじめ部下に偵察をさせるなど、実戦向きに改善したもので、遊びそのものが実は訓練の一環になったわけです。また居城にこもらずにしじゅう町中で遊ぶことで、城下町の庶民の生活や感情を理解することもできたのです。
このように、吉法師という幼名の頃から、信長いずれ自分が家督を継いだときに戦争も政治も自ら行えるように、自分なりのやり方で心身を鍛えていたのでした。ただし、あまりにも独創的でありすぎた故に、周りの理解は得られなかったのです。
このように、信長は独自の方法で「体」すなわち「思考・行動」を鍛えていましたが、「技」すなわち「知識・技術」の習得にも努力を怠りませんでした。
国を統治するための勉強については、史実には残っていませんが一通り以上の学問は修得していたことでしょう。後に信長経済政策として有名になる「楽市楽座」は、六角氏が近江で開いたのが始まりとされていますが、いち早くその良さを認めて取り入れたり、軍事面では有名な「鉄砲隊」や「長槍隊」も後継者の頃から研究したりと、新しい知識や技術に関して貪欲に情報を集めていたことがうかがえます。武芸に比べると、文芸にはさほど力を入れていなかったものの、和歌の知識も相当にあり、また好んで幸若舞の「敦盛」を舞っていたのは有名な話ですね。「敦盛」の舞いは、後でまた触れることになると思います。
では、事業承継をするに当たって一番大事である「心」、すなわち「後継者として事業を承継する「決意・覚悟」」はどうだったでしょうか。
この点については、武家社会では嫡男が事業承継をすることは当然とみなされていたために、現代よりは家督を引き継ぐことに関しては「元服」(成人式)の時に覚悟が定まっていたと考えていいでしょう。
ただし、「本物の決意と覚悟」については、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康三者三様に異なるやり方ではあるものの、それぞれが生きるか死ぬかの体験をくぐり抜けることで、覚悟が定まったと私は考えています。それについては、それぞれの承継を見ていくことで触れていくことにします。

 

(3) 織田信長が「本物の決意と覚悟」を持つまで

 織田信長は、(1)と(2)を踏まえて、どのように事業を承継したのでしょうか。
織田信秀の死後、家督を継いだ信長でしたが、先述したように弟の信行を支持する勢力もあり、家中は二分されることとなり、また、信秀の死をチャンスとみて、尾張国で勢力を広げようとする織田の同族との抗争に追われることとなります。
 弟の信行との争いについては、1557年に敵方の同族へ寝返ろうとした信行の動きを家臣の柴田勝家から入手して、策を講じて暗殺することにより終息します。ここで大事なのは、何の理由もなく謀殺すると、家中の支持を得られなくなるおそれがあることです。実に1551年の家督相続から6年、辛抱強くチャンスを待って解決したわけですね。信長は、「殺してしまえ」の句からすると短気に思われがちですが、待たなくてはならないときは人一倍辛抱できるのです。
 織田信行の死去により、自らの拠って立つ統治基盤を確立した信長でしたが、家中の支持を全面的に得られたわけではなく、また国内の同族との抗争も続いていました。ようやく、尾張国での地位を確立しつつある中、突如として織田家は存亡の危機を迎えることになります。かの有名な「桶狭間の戦い」を生起した、今川義元の西上です。
 今川義元は、駿河国・遠江国・三河国の三カ国(今の静岡県と愛知県東部)を従えた押しも押されもせぬ大名であり、家格は由緒正しい守護大名、甲斐国(山梨県)の武田信玄や相模(静岡県東部)の北条氏康と「甲相駿三国同盟」を結び、北の守りも東の守りも万全です。満を持して2万を超える大軍を率いて、京都へ攻め上がり天下へ号令をすべく尾張国へと攻め寄せてきました。
対する織田信長の兵力は、かき集めても5千人くらい。一説には2千人とも言われ、とても平原で戦ってもかなう相手ではなく、軍議で家臣たちはくちぐちに「城へ籠もって戦いましょう!」と籠城戦、つまり城にこもって戦う方策を主張します。しかし、籠城戦は援軍が来ることが前提の戦いです。婚姻関係で同盟していた美濃国(岐阜県)の斎藤道三は、親子の内紛により嫡男の斎藤義龍に滅ぼされて今は亡く、国内の敵対的勢力も今川義元になびくなか、四面楚歌の織田信長に味方してくれる有力な勢力は、一つもありませんでした。この状況で城にこもっても、兵糧が尽きて滅亡するしかありません。これ以上ない、絶体絶命ともいえる危機です。
しかし、織田信長はその場で結論を出さず、不安げな家臣たちを横目に軍議を解散します。明言はしなかったものの、肚は決まっていました。
 「籠城はしない。出て戦う」
おそらく、勝算などなく、かといって華々しく散るという捨て鉢な気持ちでもなかったことでしょう。自分を取り巻く過酷な状況に対して、「籠城」という「当面は安全だが必ず滅亡する道」ではなく「危険に満ちているが、打開するチャンスが皆無ではない」出撃を選んだということではないでしょうか。
翌朝の午前3時頃、今川軍が織田の前線に攻撃を開始したことを知った信長は、かの有名な幸若舞「敦盛」を三度舞います。
「人間五十年 化天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび生をうけ滅せぬもののあるべきか」
舞い終わった信長は、急ぎ身支度を調えて明け方に清洲城を出撃し、熱田神宮で戦勝祈願を行い、一目散に今川義元の本陣へ突撃を開始して、義元の首を討ち取って大勝利を上げ、一躍戦国の世に名をとどろかせることになります。
この奇跡的な戦いの勝因は、織田信長が整えていた緻密な情報網、貴重な戦力を集中したこと、突如襲った豪雨の幸運など、多くの論者が論じています。でも私たちがここで学ぶべきことは、信長がこの戦いにのぞんで、ついに「本物の決意と覚悟」をするに至ったということではないかと思います。尾張国での支配権を確立しつつあった信長でしたが、隣国の美濃国(今の岐阜県)の斎藤義龍との戦いでは、なかなか勝つことができませんでした。美濃国は京都に近く、農業も盛んで豊かな国です。さらに、先ほども触れましたが、婚姻により義父となっていた斎藤道三は、信長の優れた才能を見抜き、「美濃国を譲る」とさえ約束してくれたほど目をかけてくれましたが、対立した嫡男の義龍との戦いでその約束を果たさずに殺されてしまったのです。信長にとって美濃攻めはいわば「舅の弔い合戦」でもありました。信長は、舅の仇をうって、約束通り美濃を攻め取らなければならなかったのです。しかし、舅の育てた武将と兵士たちは、あまりにも強かった。
しかし、織田家の存亡の危機となった今川義元との戦いで、一度は滅亡を覚悟した戦いに勝つことで、信長は劇的に変わります。正面から当たっては砕けるやり方を改めて、調略(様々な裏工作)に長けた藤吉郎(後の豊臣秀吉)を用いて美濃国の武将を寝返らせ、確実に勝てる体制を整えます。桶狭間から7年後、ついに稲葉山城を攻撃して陥落させ、美濃国を制圧することになります。斎藤道三の築いた稲葉山城に入った織田信長は、この城を「岐阜城」と改名して、「天下布武」の意思を表明し、ここではじめて天下統一への野心を明らかにするのです。

 

(4) 織田信長の事業承継とは

ここでみた、織田信長の事業承継は、どう考えればいいのでしょうか。
私は、織田信長は、実父の織田信秀と、舅の斎藤道三から事業を承継したのだと思います。
普通の後継者であれば、実父の事業だけ承継すればいいのです。尾張国は一国だけでも豊かな国であり、有力な大名として戦国を生き抜くことはできたでしょう。
しかし、織田信長は舅である、斎藤道三との約束も忘れませんでした。舅が丹精を込めて築いた、豊かで兵士も強く城も堅固な美濃国という財産を承継して、初めて自分は「後継者」と名乗ることができるのだと、おそらく決意していたのだと思います。だから、美濃国を制圧して後で「天下布武」を表明したのではないでしょうか。そういう決意を持っていたということは、織田信長が凡百の後継者とは違う証しです。
しかしながら、舅が築いた礎は強固でした。何度ぶつかっても、惨めな敗北があるだけでした。自分には何かが足りないのだ。そう自問自答する日々であったに違いありません。
そんな中で到来した、織田家滅亡の危機。しかし、この絶体絶命の危機を迎えて、承継どころか滅亡を覚悟して戦いにのぞみ、それを乗り越えることで、信長「本物の決意と覚悟」が定まったのではないでしょうか。これまでこだわっていた、正面からぶつかる戦い方だけではなく、情報を収集し、勝つための裏工作をあらかじめ練っておくなどの「調略」が、強敵に勝つためには必要不可欠なのだと悟ったに違いありません。
絶体絶命の危機で自らの変革の必要性を悟り、後継者として「本物の決意と覚悟」が定まった織田信長は、織田信秀斎藤道三の二人からの事業承継を見事に果たし、ようやくここで、自らが望む「天下布武」へと邁進する資格を得た。これが、織田信長の事業承継ではないでしょうか。

(次ページは、豊臣秀吉の事業承継)

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